六朝記とは奇妙な時代である。
当時の中国は百年の分裂の後、梁という統一王朝ができた。梁朝は人々の希求する意志に従い出来た王朝であったと思える。もはや人々は争いに倦んでいたのだ。本来なら梁の治世は永く続く筈であったであろうが、二代目煬帝の暴政の為、あえなく30年で統一を失った。
この後、統一を渇望する中国人民は多大なる労苦をして統一を求めた。その結果とした多くの英雄が生まれ、六朝記という時代が生まれた。
この時代の奇妙なところは、約30年で戦乱の時代が起こり数年の大乱の後に再び平和になるというサイクルを繰り返したところにある。
うち戦乱の時期は主に3つ、六朝記の研究者達は第一期、第二期、第三期という区別をしている。
第一期は韓延、實英徳らの乱に始まる(統一王朝としての)梁の滅亡。この時代の主人公格は何といっても政府側で皇族の一人でもあった斉王江宰と、反乱側で後に燕王朝を建国した趙世朗であろう。
第二期は北梁、南梁、燕、揚の4国鼎立の状態から始まり、燕内部での軍閥同士による権力闘争、揚における孫竜大将軍の専横、そして北梁、南梁、燕の滅亡と新王朝の建国である。この時代の主役は燕を滅ぼし魏を建国した司馬惇と、揚王朝を簒奪しようとして失敗した孫竜であろう。
第三期は魏、秦、呉越の3国鼎立の状態から始まり、魏の武則天による秦討伐、呉越の宰相の林飛鴻による北伐がある。この時代は何といっても魏の武則天、呉越の林飛鴻、延崇が高名であろう。
そして彼らの直後に尚文恒が頭角を現し、この混乱した六朝を終焉させることとなる。彼の建国した王朝は蔡王朝と称し、この中華において空前の絢爛な時代を築く。
おそらくそれは、人々の永く希求した平和そのものであったからであろう。
●第一期●
第一章 梁王朝
梁王朝は、長い戦乱の末、中国の北半分を制していた周王朝の重臣江桀(諡号:文帝)が帝位を簒奪して建国した国であり、その後、南半分を支配していた揚王朝を滅ぼし百年ぶりに統一王朝となったものでした。
初代皇帝である文帝は、野心家ではありましたが、冷酷で無駄を嫌う有能な人物でしたが、その後継者となった江広(諡号:煬帝)は、派手好きで大規模な土木工事や無意味な遠征を繰り返し。父が蓄えた国力を疲弊させました。
反対する重臣は宮中から放逐するため、周りには茶坊主的な臣下しかいなくなっていたのも梁王朝の不幸とも云えます。これは臣下のみならず、息子達もそうでした。
煬帝には4人の息子があり、長男が秦王の江英、次男が皇太子の江建、三男が趙王の江玄、四男が斉王の江宰です。秦王は一番才覚的に優れていると噂されていましたが、諫言の結果、父の不興をかい皇太子候補から外され、凡庸な次男の江建が皇太子となっていました。その下の王子も三男の趙王は武勇に優れ、また陽性な性格で下々の者に愛されており、また四男の斉王は軍人として武功を重ねており、非常に優秀な人物であったとされていの杜伏祐の乱の3つがあります。
その他にも、後に燕王朝を建国した趙世朗が河北省北部で、同じく揚王朝(前述の揚王朝と区別して後揚と呼ばれる)を建国した殷宗国が安徽省でそれぞれ乱を起こしました。
これらの反乱は、それぞれ離合集散を繰り返しました。韓延はそのうち部将の一人であった李世充に勢力を奪われ、杜伏祐は娘婿となった殷宗国に勢力を譲り渡し、また實英徳は長安攻めを目前に控えながら病魔に倒れ、その遺産は部将の劉法闥(河北省南部を根拠)と梁敬(山西省を根拠)が分け合いました。
第三章 討伐と梁王朝の分裂
梁王朝でも反乱を座視していた訳ではありません。
趙王と斉王を総大将として、反乱の討伐軍が編成されました。討伐は韓延や杜伏祐を追い詰め、半ば成功するかに見えましたが、煬帝が没した直後に長安にて皇太子と秦王が内部抗争を始め内戦状態となりました。
最終的に秦王が勝ちましたが、そのとばっちりを喰い暗殺された趙王の意志を継ぎ、斉王が奪回した洛陽で自立、実質的に梁王朝は2つに分かれました。この後、斉王は長安を攻め、兄の秦王を蜀の地に追いやりました。
歴史学上では、秦王の継いだ王朝を南梁とし、斉王の建国した王朝を北梁と云い、秦王の南梁を正統な王朝と見なしています。
第四章 燕王朝
趙世朗は燕の人間で、實英徳の乱の直後に兵を挙げ、瞬く間に燕と遼の地(現在の河北省北部)に割拠しました。そして表向きは實英徳に服従しながら斉の地(現在の河北省南部から山東省周辺)への進出を目論見、實英徳の病没後は劉法闥と梁敬の争いに乗じて斉の地を奪い燕王朝を建国しました。
この王朝の有名人物と云えば燕の斉州軍閥の創始者王仲業がいます。おそらくは六朝通して屈指の豪傑ですが、同時に(後の呉越の元武仲と並ぶ)好色な人物でもあり、そのエピソードは枚挙に暇がありません。
第五章 揚王朝
殷宗国は呉の人間で、杜伏祐の乱に呼応し寿春(現在の安徽省)で兵を挙げました。彼の元には有能な人材が次々と集まり、殷宗国は着実に勢力を伸ばしていき、最終的には杜伏祐の娘婿になることで杜の地盤も受け継ぎ、江南一帯を己の勢力下に治め、揚王朝を建国しました。
また殷宗国は治国にも長けた人物であったらしく、前述の燕王朝と異なり王朝の地盤は堅固で、また太祖殷宗国の晩年の元勲狩りにより皇帝の力は強大になり4国鼎立時代における最大の王朝となりました。
●第二期●
第一章 軍閥の争いと晋王朝の滅亡
燕王朝は現在の河北省、山西省、山東省、そして河南省の東部を支配する広大な勢力を有していたものの、太祖趙世朗の豪放な性格が災いして統一性はまったく取れていませんでした。具体的には山西省には晋州軍閥が、山東省には青州軍閥が、そして河南省東部には韓州軍閥がそれぞれ割拠し、燕皇帝の実際の権力が及ぶ土地は燕京周辺(現在の河北省北部)に過ぎませんでした。
これらの軍閥はそれぞれの既得権を守るために皇帝の命に従わず、また互いにあい争っていました。
この争いの中から司馬惇が頭角を現しました。
司馬惇は韓州軍閥の部将の一人で猛将として知られていましたが、実は策謀にも長けた人物で、自分の主人である韓州節度使陳賢典を陥れ、自分が韓州軍閥の実権を握ります。
そして北梁を攻め滅ぼし、その余勢をかって燕王朝の実権を奪います。やがてライバルである青州軍閥の節度使高知璋を滅ぼし魏王朝を建国します。
一方、晋州軍閥の節度使である劉周武は司馬惇の簒奪を利用し、現在の山西省で自立、更に西に勢力を伸ばし長安を陥して秦を建国します。
第二章 南梁の滅亡
孫竜は揚の翔衛将軍(近衛軍団長)であり、皇太子である崔曾の側近でした。当時の揚は太祖の正妃であった杜大后(前述の杜伏祐の娘)が実子である楚王の崔剛を皇位に就かせようと画策しており、宮廷内部は皇帝派と楚王派に分かれていました。
孫竜は皇太子と共に太祖を説得、国力の衰えた南梁の討伐を図りました。
当時、南梁は北梁との抗争で疲弊しており、揚軍の猛攻の前にあっけなく滅亡します。
この遠征の結果、孫竜は翔衛軍以外の遠征軍の実権をも握り、揚王朝の中央軍の大部分を影響下に置くことに成功します。
第三章 孫竜の専横
太祖の没後、孫竜は僅かの時間に、宮廷内部の楚王派を一掃しました。軍を使い反対派を皆殺しにしたのです。そして自分の主人である崔曾(諡号:明帝)を帝位に就かせました。しかしその荒っぽいやり方に明帝も危機感を抱き、楚(現在の湖北省一帯)の実力者である陳東に連絡をとり孫竜を排除しようとしましたが、勘づかれ逆に殺されてしまいました。孫竜は、殺した楚王の息子(まだ嬰児であったので孫竜も殺さずに生かしていた)崔旻を帝位に就け(諡号:末帝)陳東の討伐に向かいました。
この混乱も、北では燕が北梁を滅ぼし、司馬惇が青州軍閥と争っていたので他国から侵略されるおそれはありませんでした。しかし逆に考えると北の混乱時に揚もまとまっていなかった為に、千載一隅の北伐の機会を失っていたのです。
第四章 揚の滅亡と呉越王朝の成立
陳東討伐に向かった孫竜は、陳東の送った暗殺者によりあっけなく殺されてしまいます(余談であるが暗殺者は女性で、閨房にて暗殺された)。この後に陳東は揚の実権を握り、揚の復興に努めます。そして十分に根回しをした後に帝位の禅譲を受け、呉越王朝を開きます。
(編者注 この時代は手詰まりになると、すぐに暗殺という愚劣な手段にでる傾向がある。唯一暗殺に手を染めていないのは天下を統一した、蔡王朝の尚家だけであろう。)
この時、揚王朝に絶対の忠誠を誓う者は、すでに孫竜によって殺されており、他の者も陳東の人物と実力を知っていたために反対をする者はいませんでした。
呉越王朝が他の五つの王朝と異質なところは、前王朝の皇族を殺さなかった事です。帝位を禅譲した崔旻はその後も生き続け、67歳の生涯をまっとうします。