●第三期●

第一章 魏の隆盛 

 魏は太祖司馬惇の没後、息子の司馬丘(諡号:武帝)が後を継ぎました。司馬丘は内政と軍事の大胆な改革を行い、国力をおおいに伸ばしましたが、暗殺者(誰の手の者かは不明)の手により倒れます。
 その後を継いだのが、幼い息子の司馬賓(諡号:譲帝)です。
 しかし司馬賓はまだ嬰児であり、実質的には司馬丘の実妹である武后公主(諡号:武則天、以下武則天と記述)が実権を握りました。
 武則天は女性ながら、指導力に長け、兄の武帝の没後に乗じて侵略してきた北辺の突厥族、西の秦、南の呉越を各個撃破し、建国以来最大の国難を乗り超えます。この危機を乗り切ったことにより、武則天のカリスマ性が確立し、魏は内部に強固にまとまります。
 この後、武則天は兄のやり残した内部改革を遂行し、短期間のうちに魏を三国最強の国家に成長させます。
 余談ながら、武則天時代の魏は朝鮮の新羅と同盟し、百済と結んだ日本と白村江の戦いを起こし、その結果として新羅が朝鮮を統一します。 

 

第二章 呉越の内部抗争 

 呉越は太祖陳東の治世の末期であった。太祖に最も愛された長男の陳遵は早世し、その息子である陳元が皇太孫として後継者として選ばれていたものの、叔父の楚王陳亮も兄に似た軍功きらびやかな傑物であり、また先年の対魏戦争の敗北による国家危急の時期であっただけに、楚王を後継者にとの勢力も大きく存在しました。
 この皇太孫派と楚王派の対立の中、皇太孫派の太傳(教育係)林飛鴻は魏に向かいます。先の対魏戦争で奪われた北辺の城砦の返還交渉のためでした。
 この時、武則天と林飛鴻の会見があったとされています。演義本等によれば、その時に武則天が林飛鴻の才能に惚れ込み、魏の宰相の座を提示して自分の幕下に加えようとしたとされています。(最も、この時の武則天の幕下には八龍将を含め数多の英傑が揃っており、実際にその様な話があったとは思えませんが・・・)
 交渉の後、林飛鴻は自分の有する魏とのパイプを利用し、宮廷内で勢力を伸ばしていきます。そして、それを快く思わぬ楚王と激しく対立していきます。
 そしてその対立は、太祖の没後に噴出します。
 皇太孫を擁する林飛鴻は、皇太孫のもう一人の有力な叔父である蘇王陳秀を自陣営に率いれ、楚王とその知恵袋である張天文を引き離し、楚王を反乱の罪で失脚させ憤死させることに成功します。
 その後の呉越王朝は、即位した皇帝(諡号:憂帝)の下、宰相である林飛鴻と皇帝後見人たる蘇王の2頭体制となりますが、両者は水面下で激しく呉越の宮廷での主導権争いを繰り返し国力を疲弊させました。 

 

第三章 蜀の延崇 

 蜀の延崇は、長沙の人で、兵法に優れ高名を得ていました。
 当時は呉越の四川方面軍の総督であり、呉越の中央が内部抗争を繰り返すのに嫌気がさし、蜀で半ば独立した勢力を築きあげていました。
 この反逆とも取られかねない(事実、延崇は後に独立している)延崇の行動が可能であったのは、おそらく林飛鴻との密約があったことと思われます。
 共に六朝期屈指の策士であり、相手を利用する事しか考えないような人物でしたが、優秀であるが故に、敵である武則天の実力が理解でき、その対抗手段のために手を組んだと考えられます。
 ともに中央と四川の地の支配権を確立した後の林と延の行動は、まるで共同作戦でも練っていたかの如く連携します。
 宰相となった林飛鴻は、密かに北伐の為の軍を編成し始め、延崇は単独で長安を支配している秦に戦いを挑みました。
 延崇は、『孫子』の注釈を記した人物の一人であり、後の世において兵法の一祖とも称される人物だけあって、その兵法は玄妙を究め、(既に枯れた巨木となっていたものの)秦の首都である長安を短期間に制圧しました。
 しかし、延崇軍の長安制圧は魏を刺激することとなり、武則天率いる魏の大軍が長安へ向かう事となりました。むろん秦の復興のためではなく、長安を魏のものとする為です。
 しかし、魏のこの軍事行動は林飛鴻の狙うところでもあったのです。 

  六朝期一番の英雄は誰かと問われると、中国人なら100人の内100人が武則天と応えるであろう(日本では林飛鴻教とも云うべき『林子兵法至上論』が根強いため、そうでもないが)。武則天はそれほど人気が高く、事実優秀な人物であった。男性社会である彼女の時代において、古今無双の活躍をし、そしてカリスマがあった。
(編者注 ここで忘れてはならないのは密告の奨励と酷吏の登用という影の部分であろう。国内をまとめるためとはいえ、一万人近い人間を処罰したのは誉められた話ではない。しかし、その暴雨が庶民の元まで届かず、朝廷というコップの中で収まっていたのは賞賛するべきだろうか。)
 そして一方、天にその時代に配された人物は武則天の栄光に隠れ影が薄い。おそらく六朝期の他の時期ならば、名将・智将として名を馳せたであろう英傑も多い。いやむしろ、他の時期と比べ人物の粒は大きい時代であったかもしれない。武則天の名の影に隠れないですんだ人物は、大兵法家の延崇と、そして林飛鴻の両名ぐらいであろう。
 そして、この林飛鴻。その頭の中で紡ぎだす作戦のスケールは、武則天や延崇を超え、いやあるいは中華の歴史の中でも空前絶後であったかも知れない。
 林飛鴻の紡ぎだした最大の作戦・・・それが第一次世界大戦中のドイツの参謀総長シュタインバッハをして『我が師に会った』と感嘆せしめた、北伐の2方面作戦である。(ドイツは第一次世界大戦において2方面作戦を遂行し、そして破れましたが・・・) 

 

第四章 北伐・南北決戦 

 武則天の率いる魏の主力部隊が、長安に於いて延崇の軍と対峙した、その瞬間(まさしく瞬間としか言いようのない早業であった)、憂帝率いる呉越の主力軍が北伐を開始しました。
 目指すは魏の皇帝、譲帝との皇帝決戦。
 この時、両軍を率いる皇帝は、それぞれ呉越の憂帝が15歳、魏の譲帝が11歳。
 そしてその下で実質的に軍を率いるのが、呉越が宰相の林飛鴻と皇帝後見人の蘇王による両頭体制であり、魏が八龍将(魏の主力部隊の将軍)の一人である尚文恒でした。
 軍の兵力は、準備の整った呉越軍の方が圧倒的に有利であり、また呉越には名将である蘇王を筆頭に名だたる将が揃っていました。
 魏は、軍の主力が長安にて呉越の別動部隊と対峙。兵力はやや優勢なれど、対峙するはその名も高き兵法家、延崇。
 「我々は勝たなくても良いのだ、時間が我々の味方なのだ・・・」との言葉は残っていませんでしたが、おそらく延崇に尋ねればそう答えた事でしょう。
 しかし、延崇ら呉越の諸将にとって時間が味方であると同時に、武則天ら魏の諸将は、時間が最大の敵である事を十分知っていました。
 武則天の、延崇ら呉越軍に対する挑発は激しく、1人の若き驍将に迎撃を禁じていた延の命令を破らせる事に成功します。
 魏軍はその機会を見逃しませんでした。
 延崇は確かに名軍師であり兵法の第一人者でありましたが、武則天も古今随一の将才を持ち、そしてそれ以上に魏兵と呉越兵の実力の差がありました。
 呉越軍はわずか一日で大敗し、長安に籠もらざるを得なくなります。
 この情報は直ちに呉越の本軍の下へと届きます。呉越の将軍は、武則天率いる魏の第二軍が援軍として到着する前に第一軍と決戦を挑むという一派と、このまま撤退しようとする一派が激しく論じあいます。
 しかし、その時には武則天は、単騎で甥の譲帝率いる第一軍に合流し、呉越の本軍をおおいに破ります。(太亘の戦い)
 そしてこの結果、百年にわたる南北分裂が終焉する事になります。

 

第五章 残照 

 武則天の率いる魏軍は、太亘の戦いの後に呉越を蹂躪します。林飛鴻の直属軍は劣性を跳ね返す見事な戦いを演じますが、局地戦の勝利は全体をくつがえすことなくおわります。魏は、林飛鴻の首を条件に講和を申し入れ、呉越は承諾します。ここに至り、呉越は滅亡の道を歩みはじめます。
 この戦いの終焉近くにおいて、魏の総帥である武則天は裏切者の凶刃に倒れます。この暗殺の背後には林飛鴻の影があったというのが定説です
(編者注 近年、武則天の墳墓が見つかり解剖の結果、江南特有の風土病にかかっていたことがわかった。このことから武則天の死は暗殺ではなかったという見解が今では定説である。林飛鴻は暗殺という手段を嫌っていたと記す資料も多々あることを併せてのせておく。)
 しかし、武則天の死後も魏は大きな混乱はなく、尚文恒が大将軍となり実権を握ります。
(度々編者注 稗史には武則天が尚文恒に向かい代わりに天下を治めるよう遺言を残したと記すものもある。その遺言を背景に国内を固めていったのだというわけです。おもしろい話なのでここに紹介しておく)
 尚文恒自身は、魏の政権に対する簒奪の意志はなかったとされますが、その息子である(もっとも尚文恒が魏の実権を握る事が出来たのは、この優秀な息子のお蔭ですが)尚世民が父を担ぎ上げ、魏の譲帝より帝位の禅譲を受けさせます。
 やがて尚文恒は、四川で独立した延崇の蜀を滅ぼし、返す刀で林飛鴻なき呉越を滅ぼし天下を統一します。

以後二百年にわたり中華の大地に統一をもたらす蔡王朝の誕生です。 


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