ここでは数々の難事件を解決した記録を収めています


参考:三国志の広場で論じた諸葛亮

 まず、三分の計は諸葛亮が立案したことであることは正史にも残る事実である。
 普通に考えた時、三顧の礼、水魚の交わりを聞けば、諸葛亮がこの戦略案を考案したことがわかる。委細を話す必要がなければ、始終話し合う必要がないからだ。
 諸葛亮を派閥論理の魔術師と表現され、劉備はそれを恐れているといった書き方ですが、通常の読み方をすれば、劉備はわずか27歳という青年軍師を如何に命令系統の上位に置くかと腐心しているように見える。水魚の交わり、三顧の礼のエピソードが流布される事実は、如何に劉備が諸葛亮を大事(才能を認めているか)にしているかという気持を旧来の部下に知らしめるためであるというのは想像に難くない。

 行政権の話であるが、何故、私が力説するかと言えば、荊州時代の諸葛亮は未だ若年であり実績のない書生でしかなく、実務能力を担当する劉備陣営への影響力が無いからである。つまり企画者の立場であり、劉備を通してでなければ命令が下せない事を証明したいからです。(田中真喜子と外務官僚の関係をみて想像していただければと思う)

 益州に遠征するにあたり、三分の計の理解する人物を荊州におかなければなく(一番重要な呉との連携を知らなければならないからだ、遠征スル前に既に益州に勝つための準備は終了しており必ずしも頭脳が同行する必要はない)、留守を任すに軍部の関羽、行政の糜竺達に指揮できるようにしなければなないので、根拠地の全権代理人として諸葛亮を持ち上げる為に腐心する劉備の姿を想像するにさほどの困難は無いだろう。
 では、ここで同じ能力を持つとされるホウ統を荊州に置かなかったか?であるが、ホウ統は二重の意味で新参者である。一つはやはり劉備陣営に所属したのが赤壁以後である事。今一つ呉からの転向者であることが上げられる。スパイとは思わなかっただろうが荊州に置くのには問題が合っただろう。さらに実力未知数で手元で実力を図りたいという部分もあり、劉備自身が連れていったのだろうと想像される。
 ホウ統は劉備と接点がないのは魯粛のエピソードを見るまでもなく事実である。
 周瑜無き後でも君主に認められないといえ、魯粛は評価している以上、周瑜の時同様魯粛の元で栄達すればよく、劉備陣営に寄せる必然性がない。劉備と接点がない以上、同門の諸葛亮が招いたと考えるのが自然である。

 劉備が諸葛亮が推薦した新参のホウ統を重用するに、旧来の部下を納得させなければならず、その為に実績を積ませる必要が出てくる。そのためにホウ統を小都市の知事にしたのは自然な成り行きとだろう。そこへ同盟国の重臣の推薦を得、実績の代わりにしたが正解ではないか?
 ここら辺は現在の人事のあり方を見ればさして難解な考えでは無い。

 故に、正史のみならず、それに対する背景を読めば、さして難しくなく諸葛亮が益州遠征の企画を練っていたホウ統を呼び寄せた結果になるのではないだろうか?


>諸葛亮の派閥問題
 「がんもさん」の言われる劉備が派閥の理論で諸葛亮の対抗に法正を置いたという事ですが、何も荊州閥の代表が青年の諸葛亮である必要がないという事から反論させて貰おう。
 なんと言っても諸葛亮の地位向上に熱心だったのは劉備である。門地もなく名士ではない、書生の諸葛亮を上位に上げるのは並大抵のことでは無かったのでは無いだろうか?
 ここから考えれば劉備は諸葛亮の企画力、戦略能力に傾倒している事が判る。その才能を評価しなければここまで旧来の部下達に諸葛亮を一目置くようにと説得はしないと思われる。
 そして荊州閥であるが、荊州を拠点としている時期に、閥も何もなく荊州の人士を登用するのは当然である。その中で派閥はあっただろうと思われるが、諸葛亮は劉備から特別視されており派閥の外であったと事は特筆するまでもない。

 入蜀以後であるが、法正の人事であるが論功におけるバランス人事であったことは確かだと思われるが、対抗である可能性は少ない。
 益州閥の代表として諸葛亮と馬の合う法正を置いたのは、逆に劉備の諸葛亮へ仕事をしやすいようにとの配慮と思われる。この時期になり諸葛亮は丞相として行政権も確立する。
 劉備陣営がいままでのような卓越した軍事力と政治力を行き当たりばったり使うのではなく、統一した軍事行動(国家戦略)の元で行動し始めるのは諸葛亮を得てからであり、ホウ統死後以後も行われている事を考えれば、シンプルに諸葛亮の企画力の高さを証明できるだろう。
 結論として派閥の理論で言わせて貰えれば、劉備が無能な諸葛亮を丞相にスル必要はカケラもなく、諸葛亮は派閥人事よりも自身の才能によってその地位を得たことが容易に判る。


>諸葛亮の演義と正史の軍略能力
 演義の諸葛亮はよく負けているという事実をご存じだろうか?
 諸葛亮が演義で軍事を賞賛されるのは大負けせず、次の策を練っている所では無いだろうか?これは何も演義だけではなく、正史の姿も同じである。諸葛亮の戦略の立て方は常に周到である。
もちろん人気の理由は悲壮感ある忠義心で戦う姿であるだろうが、魔法を使わない演義の諸葛亮は実に正史に近い人物であるように思われる。
 もちろん、麻薬論を採るならば、幻覚作用を使い、魔法使いの如く振る舞うことさえ可能であるが、これは妄想の域として、今は却下させて戴く。

 統一した国家戦略思想の元、軍事戦略を常に無理をしない闘い方で実に上手く企画している。第一次北伐等も長安を取るより、魏に信服していない北西の部族と連絡(連携)を取れるようにと腐心している。とにかく馬超達の遺産を受け継ぐためである。その時に長安を落とすことは国家戦略にそぐわない事は状況を見ればおわかり戴けるだろう。それに国力を見れば長安を一時的に占拠しても維持するのは不可能である。軍事戦略立案は実に巧妙で補給が途切れれば即座に退く等と見識を示している。

 だが所詮は白面の書生であり、軍事経験が少なく(南征は諸葛亮自身の軍事経験値を貯めるために同行したと思われる。つまり北跋の為の予行演習)軍事戦術での失敗は数々ある。とみに有名なのはカクショウの城を落とせなかった所である。ozuさんとは見解が異なるがこれは戦略上の失敗ではないと思われる。諸葛亮はこの小城に10倍する兵力を展開していますし、ここを補給地点として確保すること自体は間違いではないでしょう。

 子細は違えどもやはりは武人肌の丞相であったのは確かであると思われる。

















月旦復活しないかなー
 


平成14年 10月24日


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