息が熱い
 熱が出ているときは、苦しくて思案も出来ないだろうと健康なときは思いがちだが、布団にくるまっていると悪い想像や、思い出がたくさん浮かぶ。
 思うに熱という刺激が脳の普段使わない部分を刺激しているのではないだろうか?もしもそうだったら、死ぬというこの世で最大の刺激を受けている人々はどれほど途方もない思案をしているのだろう。その最後のビジョンが美しい野山であれば天国、重苦しい後悔の念ならば地獄なのだろうか?現在、病気という段階の刺激で“後悔”がたくさん浮かぶ僕は地獄の方が近いのだろうか?(しかしながらこのような病気で一々死を感じなければならないことに一々の心の弱さを感じる。)
 自重しなければならない段階で先走ってみたり、瞬柔し、決断を遅らせて失敗したりと、あまりいい思い出は浮かばない。もう少し大人であればと。(自分の考えでは大人とは孤独に耐えれる人のことを言う。長く生きていれば親、親類と庇になってくれた人も居なくなる。)
 ただ、風邪をひいたときには必ず、小さな頃の思い出としてお爺さんにオモチャ(ヤッターマンのメカロボ)とバナナを買って貰った事を思い出す。お爺さんの顔も覚えていないがたいそう嬉しかったに違いない。
 大人であろうと、強くあろうと必至に生きる僕は虚勢でも強がりでもなるだけなら弱みをみせまいとする。お酒を呑んで醜態をさらすのは嫌いなのはこのためだ。容姿がイマイチなんでせめてこの部分ではかっこよくありたいのだ。別にキザになりたいわけじゃない。慄然として自分を曲げたくないだけかもしらん。そう考えるとなんと我が儘な。
 でも病気になって雨の音の中、一人布団の中でケホケホいっててるとどんどん弱気になってくる。友人に電話してみようしら?携帯のメールもいいわよね?なんたる気弱さか。
 けれども、この時期には元気なときにない配慮をしはじめる。動かない分思慮深いのか、ただ臆病になってるだけかもしらんが、まず掛けることはない。
 甘えたいのだが、甘える対象が居ない状態だろうか?恋人が居てその人の前では猫なで声になるのは分からなくもないとも思う。今までを振り返って猫なで声をしなかった僕は一線を引いていたのだろうか?とも反省をする。反省をしたからと言って何が出来るとは思えないのだが。
 などと布団の中の後悔は続く。この思いは特別なことではなく、たぶん多くの人がそうしているのだろうと、無理矢理共感しておこうか。
 今も誰から来るわけでもないメールを寝ては起きて、2時間毎に受信を押してみたりしている。現代における顔の見えないコミュニケーションを取りたいのか?
 柔肌が恋しくなるとも自制心と野心の美姫にて眠る。


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